陰陽五行説は、中国で発生した道教的な思想や仏教が互いに影響し合って日本に伝わり、陰陽師達によって日本に合った形に変容していきました。
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日本の宗教と繋がる陰陽五行説
日本人は古くから自然や万物には精霊が宿っていると考えて崇拝してきました。 そこに、中国から陰陽五行説が伝来します。古代の日本人は、陰陽五行説を知ることによって、自然を司る神々の意図を知ろうとしたのです。
政治の世界に活用された陰陽道
日本書紀によると、日本に陰陽五行説が伝来したのは、513年とあります。 朝鮮半島の百済という国から段楊爾(だんように)という五経博士が渡来し、易経として陰陽五行説が伝来するのです。
その後、仏教と陰陽五行説に通じていた聖徳太子がそれらを政治的に深く導入することによって、「陰陽道」となり日本に浸透していきます。 大宝律令で「陰陽寮」という組織が政治的な機関として設置され、陰陽博士(陰陽師の教官)、暦博士、天文博士、漏刻博士(時間を管理)、陰陽師(吉凶占い、方位をみる)などの官職がおかれました。
日本の呪術として取り上げられる修験道(山伏の宗教)・密教も陰陽道の影響を深く受けており、特に修験道は、陰陽道の神々を信仰の対象しています。 日本の陰陽道は、平安時代の公家文化の時は、政治的にも多大な影響を与えていました。
武士の時代になっても、それは引き継がれ、鎌倉時代には将軍が京都から陰陽師を呼び寄せ祭祀や祈祷を行わせていたのです。室町時代には幕府が京都に移り、その影響をより受けるようになります。しかし、戦国時代になると、武将たちは陰陽道が戦に使われることを恐れ、一時的に姿を消すことになりますが、江戸時代になると、徳川家康によって再び陰陽師が登用されるようになります。
徳川幕府では、土御門神道を形成して「神道」としての側面も強めていきます。しかし、このころの陰陽師たちが政治的な影響を与えることはありませんでした。どちらかと言うと幕藩体制を強固にするために登用されていたと言えます。
陰陽寮の廃止と陰陽道の今
明治になり、西洋科学の発展に重きを置いた政府により、陰陽寮が廃止されてからは、政治の世界から陰陽道はその姿を消すことになります。公的には姿を消した陰陽道ですが、室町時代から様々な信仰と関係しながら、深く日本人の心に浸透していたため、全てにおいて衰退することはありませんでした。現代においても、その思想や経験は、お正月をはじめとする日本の年中行事に取り込まれ、暦や方角の吉凶を占う(占術・風水)など一般民衆の日常生活に深く関わっているのです。